
特別功労賞(増淵健賞)
浦岡敬一
また一つ日本映画の灯が消えたとの思いを深く。浦岡さんは昨暮11月24日に生まれ故郷の静岡の病院で亡くなられた。享年78歳。前夜まで病床では今年さっそくの仕事と決まっていたシナリオに色鉛筆でカット割りをなされていたそうで。常に前向きで明るく元気に生きた浦岡さんの精神力には愛惜とどまるところを知らない。
編集とは単にフィルムを切って繋ぐという「作業」ではなく、撮影されたフィルムという「素材」を使っての「演出」をと高い志から映画創りに相集う日本映画編集協会(現・協同組合日本映画・テレビ編集協会)の設立に尽力。その初代理事長でもあったが、今や編集の中間工程がどんどんデジタル化しつつある中で、小さなモニターで作る画もスクリーンならではのリズムを忘れないようにと腐心。想えば、それを正面から役を果たしたテレビの芸術祭大賞獲得のハワイロケのドラマ『波の盆』(倉本聰脚本、笠智衆主演)こそ、若いクリエイターたちにも影響を与えた誇らしい自己証明ではなかっただろうか。浦岡さんはアナログの鋏カッティングでなく、ノンリニアVTR編集でも撮影所で鍛えた研ぎ澄まされた感性の刃で自らの編集理論を貫いたのだ。監督には画が足りないと追加ショットの撮影を注文するなど、側で私は見ていたのだから懐かしく。当時、奇才と謳われた実相寺昭雄監督タッチも、横っ面を張られて目の覚めるおもいがするくらい、健康な脈拍に似た仕上がりに換骨。それが見事に年にいちどの文部大臣賞に輝く収穫を。実相寺は夭折、先に天国で待ち呆けてて今頃はもう晴々と、お互いに握手、言いたいことを言い合っているかも知れない。
松竹大船で小津安二郎作品の編集助手を務めてから昭和34年(1959年)に小林正樹監督の『人間の条件』で本格デビュー。脂の乗った30代は新進の大島渚、篠田正浩、山田洋次と闘うように組み、フリーになってからも大島渚『愛のコリーダ』、今村昌平『復讐するは我にあり』ほか寺山修司、深作欣二、実相寺昭雄たちの気迫あるユニークな、問題作の連発を。振り返ると、日本映画の明日を動かす力を見直すことになるだろう。ご苦労様でした。心をこめて特別功労賞を。
( 瓜生 孝 )